2010年2月5日金曜日

竹村正人「考察 その壱 ―なみちゃんに」

うんこは
幼児語であり
「うん」はいきむ音
「こ」は接尾語である
うんこは
ひらがなであり
うんこには漢字がない
しかし
「ふん」といきむことも
あるのだから
糞という字を
「うんこ」と読んでも
よいはずだ
すると

糞(うんこ)という字が
米と異(ことなる)という字から
なっていることが
わかる
語源は兎も角
同じ米を食っても
出るものが異なるから
米に異(ことなる)と
書くのだろう
しかし
なぜ異なるのか
全く同じものを食べても
なぜ出るものが異なるのか

それは
食べ物が口から入って
肛門から出るまでの
過程が異なるからだ

だとすれば
糞(うんこ)という名詞は
たとえ場を動かぬ時でも
常に
同じものが異なっていく動態的な過程を
表現していることになる
ひらがなでは届かない
米が異なるという
漢字を通して
甫(はじ)めて
糞(うんこ)の潜在的な速さを
體で撼じることができる
口から肛門までを
駆け抜ける時の速さを

〈存在すること〉は
〈異なること〉である
という
ガブリエル・タルドの
命題に遵えば
糞(うんこ)は
存在することの
過程そのものを
内在した名詞であることが
わかる

それなのに

だからこそ

糞(うんこ)は生まれ落ちてすぐに
抹殺される

誰もその名を
呼ぶことなく
誰からもその名を呼ばれることなく
糞(うんこ)は
無菌世界から追放される

われわれは
毎日でなくとも
ちょくちょく
われわれが
存在することの
ぷりミティブな証明を
産み落としているのに
存在の耐え難き黒さ
耐え難き臭さを
手にしていると
いうのに

おそらく
生きづらさの
理由はここにある

糞(うんこ)が
軽視される時
存在もまた
軽視されるのだと
近頃
便秘気味のわたしは
痛感している


※『紫陽』20号(2010年1月)より 
→『紫陽』についてのお問い合わせは frieden22@hotmail.com  まで。

うんこ詩人・竹村正人(1984年-)は詩誌『紫陽』創刊当初からの全面的な協力者であり、独自に様々な自律空間を創造・触発し、それらを自在に横断しながら人と場所と人とを結び合う、関西オルタ界のキーマンである。彼の実践的な場に根ざしたラディカリズムと脱力系のキャラは、アカデミックな言説が覇権を握るあらゆる批評空間を揺さぶる力に満ちあふれており、この新たなストリートの思想家に注目する知識人は少なくない。現在はオカバー(素人の乱京都店)スタッフ、『PACE(パーチェ)』編集長、『ツェルノヴィツ通信』共同編集人。

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