2011年10月9日日曜日

増田恵子 (HANARART/今井町・華甍)




どちらも「無題」。

開かれた世界があることも自我を自覚する術もない、無垢な存在にとっての、世界と交わるための唯一の通路として穴が描かれている。
その穴から生え出た野の花(上-シロツメクサ/下-レンゲ)を眺めるお地蔵さんのような顔の人物は、作家のセルフポートレイトではないのかと直感的に思った。
幸い、作家ご本人がいらっしゃったので率直に質問したところ、「モデルになってくれた人がいる」とのことだった。しかし描いているうちにそれぞれの作中人物の顔がどれも同じようになってきて、実母からは祖母にそっくりだと言われたという、そんなエピソードを話してくれた。
ならば「作家のセルフポートレイト」、という見方はあながち外れていないではないか。
(かといって、このお地蔵さんのような人物と作家とが形象的に類似しているというわけではない/しかしそれぞれのアウラに類似したものを感じたのだ)

そうして作家自身の手になるキャプションを読んだり、作家との対話を通じて思ったことは、彼女は自己の存在を、その様々な位相において見つめ続けるなかで創作を実践しているのではないかと。

多かれ少なかれ、人は皆その時々、その場その場において様々なペルソナを使い分けることで社会生活を送っている。家庭では子として、兄弟として、外では賃労働者として、友人として、生徒に対しては教師として、先輩に対しては後輩として、ペットに対しては飼い主として・・・。だが、どのペルソナもつねにすでに自己の異なる位相であり、それらは意識しなくとも、自己を構成する要素として無意味であることはない。ただ普通は、挫折や蹉跌、あるいは恥といったある種の限界状況に直面しない限り意識されにくい、というだけのことである。
そのように、「私」とは、いくつもに分裂した現存在によってしか構成され得ないということ、そのことに作家は自覚的であり、描くという行為を通じて実存に向き合っているようだ。そうして向き合う中で、内省する意思が辿り着き、つねに明かされつつある実存こそがこの絵に描かれた「胎児」なのだと思う。

彼女にとって、創作とは実存の内奥に光を照射する営みそのものであるのだろう。

それは、ステレオタイプによってつねに反復し続けるアイデンティティ・ポリティクスの外側へと、不断に抜け出ていく営みでもある。

入り口側の壁には道化のような福助の絵が3枚掛けられている。
先の2枚が実存的絵画であるならば、こちらは現存在的絵画であると、ひとまずは言えそうな気がする。

「これはお遊びです」という作家の言葉からは、彼女にとってのペルソナが福助の絵に象徴的に暗示されているという含みが窺えた。



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