2012年2月23日木曜日

金子光晴「蛾 Ⅵ」

蛾は月に透いてゐる。
翼一ぱい吸い込んでゐるのは無ではない。光だ。
蛾は、裸をみられてゐるのを意識して、はづかしさうにあゆむ。・・・・・・音はない。近づくけはひだけ。


灯をそつと吹き消すやうな音を立ててすり寄り、消える前の焔がゆらぐやうに翼をうち、
蛾は、その影とともに人の心の虚におちこみ、そこにやすらふ。
蛾は、数ではない。負数なのだ。


蛾のうつくしさ。それはぬけ殻ではない、ひ剥がれた戦慄なのだ。
汚され、破られ、すてられ、ふみにじられたいのちの、最後のさびしい火祭なのだ。


僕らの生きてゐるこの世界の奥ふかさは、恥となげきのうづたかい蛾のむれにうづもれ、
木格子を匍ひのぼり、街灯を翼で蔽ひ、酒がめにおちてもがき、
濠水に死んで浮かんでゐるあの夥しい蛾のむれに。








※中央公論社版『金子光晴全集 第二巻』、詩集『蛾』より(テキストの漢字は現行字体に変更)。
この詩は1945年8月、終戦の一週間前に書かれた。




(科野和子さんの蛾)

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。