2012年4月14日土曜日

neutron night vol.2 「宣戦布告」 於、UrBANGUILD(京都・三条木屋町)2012.4.13

オープニング。仕掛け人の石橋圭吾さん(アートギャラリーneutron代表)によって画家の冬耳(ふゆじ)さんとザッハトルテのチェリスト、ヨース毛(よーすけ)さんが紹介される。舞台後ろの壁に用意された冬耳さんの絵はこの後様相が一変することに。

照明が落ちると紫外線ランプによって蛍光色の線が浮かび上がり、青く光る少年と暗く佇む少女の首とが赤い線で結ばれる。

少女の顔からは唐草様の蔓、そして体幹を徹った根。矩形に広がるオレンジの線・・・。

ゆらめきふるえるチェロの旋律が、移ろいつつ視覚化される絵との間に物語を差し渡す。

そして、二人の間に果実が生る・・・


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谷口和正さんによるインスタレーションと長谷川健一さんのアコースティックライブ。

溶断した鉄板で製した文字列を円形に曲げ、それらを溶接により球状に組み上げ、表面を研磨したり錆びさせるなどして仕上げた谷口さんのオブジェ。球状に凝集した言の葉が、内部から発せられる光によって歌声の響く空間に投影される。


それは、内なる光によって言葉を、思想を、作品を、あるいは未だ形ならざる何ものかを世界へと解き放つ人間存在の隠喩なのだろうか。光を発する者と、発せられた光を浴びる者、受ける者、それらの間にしか存在しない大切なものがある。
モノ、人、世界、地球、惑星、宇宙・・・、ミクロからマクロまでさまざまな位相に広がる想像力を受け容れてくれるインスタレーションである。


創造的感性ゆたかな人たちでいっぱいの室内には、静けくありながらも熱いアウラがみちていた。



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シンポジウム 「3.11後の世界で表現すること」 
~SNSとローカリズムとJAPANOLOGYの地平に~

左から、石橋圭吾(nuetoron代表)、大槻香奈(美術作家・イラストレーター)、金理有(陶芸作家)、酒井龍一(美術作家)、海野貴彦(画家・「生きてる実感」主宰)、任田進一(美術作家)、小吹隆文(美術ライター)、の諸氏。


3.11以降の作家としての主体のゆらぎ、どの街で、どんな部屋で制作するかという制作と場所をめぐる葛藤、ケイタイ・ネット・SNSの普及によるメディア空間の変容と知覚の変容、グローバルとローカル、メディアリテラシーなど、多岐に渡って展開していく議論を石橋さんが見事にコーディネイト。
打ち合わせなしのぶっつけ本番ながら、カオスに流れることもなく、フロアとの距離感はほどよかった。パネリストの皆さんは創造的で礼儀正しく心優しい人たちばかりなのだろう、愛のある交わりには心を打たれるものがあった。

ギャラリスト、作家、ライターというそれぞれの立場の違いによって際立つものを読むということが、こういったイベントの楽しみであるが、立場と個性をめぐってとりわけ対照的だったのは石橋さんと金さんと小吹さんである。

石橋さんは日本の資産家層に根強くはびこる文化の貧困、顕示的消費、資産運用といった問題への透徹した批判から、美術市場の変革に取り組んでいる。ここで注意が必要なのは美術市場の変革というのは、あくまで手段であってそれ自体が目標ではないということ。石橋さんが見据えているものはずっと遠く、そういった現前しているものの彼方にあるのだろう。
しかしギャラリストである立場上、ご本人の意図を超越したところで市場原理主義という原理主義を核とする新自由主義(ネオリベラリズム→以下「ネオリベ」)に回収されるリスクを背負っている。だが、そのようなリスクなど厭うことなく文化と芸術の復権に賭けている。存在を賭けているのだ。その果敢さ、意志の強さはそのまま石橋さんの個性を基礎づけているように思えた。

その一方、陶芸作家の金理有さんは議論の中で「新自由主義」という言葉を口にしていることからわかるように、ネオリベに対する批判的視座を自覚的に持っている。だがやはり造形作家である。言葉も口にはするが、それよりも何よりも、見る者の実存の闇を射貫く鋭い一つ眼で知られる作品によってその立場を表明しているのだ。ナショナリズムやリージョナリズム、あるいはアイデンティティをめぐる上からの安直な表象には決して還元されえないということを、金さんが作った作品そのものが物語っている。それは、表象のレベルで他者から主体化を強要されるという、現代社会で広く見られる抑圧をはねのける潜在的な力を宿しているようだ。それを基礎づけているのは、金さんの作家としての存在論的強度であろう。(下の写真は「陶芸の提案2011」にて撮影)

もう一人、小吹隆文さんは美術ライターとして関西一円、津々浦々、どんな無名の作家の展示であろうと差別無く足を運び、長年にわたって作家たちの仕事を紹介してきた草の根のライターである。まさに草の根という言葉がぴったり。その仕事は多くの作家やギャラリストから絶大な信頼を得ており、それゆえの存在論的な説得力がある。
ただ批評行為という言説のレベルで小吹さんをみると、実に控えめな印象を受けるが、それはご自身の立場と個性に基づいて選ばれた態度なのだろう。


今回のイベントでひとつだけ物足りなかったのは、相手の立場性を揺るがすほど寸鉄の利いた言葉を投げかけ、それに対して己の実存を賭けて反論する、といったスリリングな場面がなかったこと。

無い物ねだりかもしれないが、もう一人二人暴れん坊がいてくれたらさらに面白かったろうに、と思ってしまうのはしょうがない。

電車の時間が気になり、終了少し前に帰らねばならなかったので質疑応答や打ち上げに参加できなかったのは残念至極。



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