2013年3月19日火曜日

美学の攪乱、の変調。あるいは・・・ ~Visual Sensation vol.5を見て

京都府南山城村のGalleryDen mym/アーティスト・イン・レジデンス「青い家」で開催中の「Visual Sensation vol.5」を見て、現代美術を条件付けている美学の規準をめぐって非常に興味深いことに気づいた。この展覧会はギャラリーオーナーの手島美智子さんが選抜した平面作家のみで構成されている。

近年、歴史的な街並みが残る地域や、高度経済成長期の開発からも取り残され過疎化した農村でのアートプロジェクトは続々と催されるようになり、美術作品はホワイトキューブに安住できなくなったことは今や周知のことである。町屋・古民家や耕作地、あるいは廃墟などこれまで現代美術が前提としてこなかった場所に展示されることで、作品を展示・鑑賞する環境の選択肢が大きく増えた。屋外への恒久設置を目的とするエンバイロメンタル・アートや、設置する建物の設計と合わせて制作される屋内のサイトスペシフィック・アートとも違い、日本独自の歴史的環境に影響されるサイトスペシフィックな展示を通じて、現代美術であることを条件付ける美学の規準が大きく揺らいでいるのである。
美しい/美しくない、面白い/面白くない、を判断する美学の規準は本来、多元的・多層的であり、それこそが現代美術であることを条件付けているはずなのだが、ジャーナリズムやアカデミズムが制度化されマーケットが確立されると、美学の規準はいつしか硬直しはじめる。ところがサイトスペシフィックな展示によって、美学の規準が多元的・多層的であることを否応なしに再認識させられるようになるのだから、そこで起こっていることは既存の立場に立てば攪乱ということになるのだろう。

しかし、今回の展覧会で分かったのは、攪乱の中で認識されるようになった価値観さえもが変調を来しているということだった。あるいはつねに刷新され続ける美学が、ときには何か望ましいものへの回帰という様相をとっているのかもしれない。

地域型アートイベントを通じたサイトスペシフィックな美学の"発見"は、一方で派手なインスタレーションやオブジェなど、視覚的な衝撃をねらったものでなければ"弱い"とする風潮をも生み出したように思う。展示点数が多すぎたり、会場となるエリアが広すぎる場合、(私は全て巡回できなくても群の力を感じられればいいという立場だが)普通は短時間でせわしなく巡回することになってしまう。そうなると、たしかに強い印象を瞬時に残す作品でなければ"弱い"となる。しかし、それだと枠の中の絵を集中して鑑賞する平面作品にとっては明らかに不利であるし、"強い"ものばかりがもてはやされるとすれば、それは芸術が擁護すべき価値とは反対のものを何の批評性もないままに引き寄せてしまう。3/17のアーティスト・トークでは出展作家の杉山卓朗さんが「その場限りのインスタレーションが求められるようなイベント性ばかりが強調されるのは恐ろしい」と発言していたように、実際、平面作家にとっては不利なのである。たしかに所与の条件の下で見てもらうには"強さ"が不可欠だが、外見上の"強さ"と作品としての"強さ"は必ずしも一致しないばかりか、本質においては別である。このことには何時でも何処でも何度でも注意せねばならない。(ここにはハイデガーのいう〈衝撃〉という概念に関わる問題や、芸術における超越性と内在性の葛藤などややこしい問題があるが、深入りはしない)。

それに対しこの展覧会Visual Sensationでは敢えて平面作家ばかりが集められているのだ。
会場がある高尾地区は小学校もすでに廃校となり、路線バスも走っていないいわゆる限界集落である。電化していない関西本線の最寄り駅には1時間に1本しか列車はこない。
だから京阪神からここに行くとなると、朝早く家を出て帰宅するのは夜になってしまう。それでもここは空気が美味しく風光明媚な山村なので、都会の暮らしで錯雑してしまった身心は、心地よく癒される(軽薄で月並みな表現ではあるが)。
あの山奥に6人の優秀な作家が集い、作品を見に多くの人々が遠路はるばる訪れる。有り難い神様や仏様を拝むために山奥の神社仏閣へ参詣するように・・・。
昼食には地元産天然イノシシの赤ワイン煮込みパスタを食べ、お茶を啜りながらみんなでのんびりと過ごしていると、そこに居合わせる人たちとの間に親近感が生まれるのに時間はかからない。顔見知り程度だった人と親しくなったり、これまでなんとなく苦手だと思っていた人とうち解けたり。
すると絵画に自然と集中できるようになり、鑑賞がよりいっそう楽しくなる。これは限られた時間でせわしなくあちこち回らねばならないアートイベントや、やはりせわしなく動き回る普段のギャラリー巡りとも明らかに違っている。
そこで思ったのは、この展覧会のねらいは平面作品を落ち着いた環境でじっくりと心ゆくまで鑑賞するための条件を設える、ということではないのかと。
敢えて山奥の古民家に平面作品ばかりを展示するということの面白さは、地域型アートイベントの観客がサイトスペシフィックな展示に要求するものとは違っているように思えるが、ここに身を置くと地域型アートイベントは今のままでいいのか?という疑問も即座に湧き起こる(これまで自分が考えてきたことも、やはり揺らぎからは免れない)。それはそれでいいという考えもまた相応の根拠があれば然り。

だが、そもそも絵画とは枠の中に意識を集中させて鑑賞する芸術なのだから、外の空間と絵画が表象する世界とは、隔絶したものとしてある。そのことを思い出せば、必ずしも外の空間に作品を溶け込ませなくてもいいということに気づく。もちろん、絵画をインテリアとしてみた場合、展示場所との調和は大切な要素ではある。
ところがここでは空間と作品との関係を超えて、作品を見に足を運んだ人の心への繊細な配慮が、物心両面においてなされているのだ。
それにより浮かび上がるものこそが、この展覧会の意義だと思った。

ギャラリーオーナーの手島さんと南山城村に惹かれて作家が集まり、作品を見に人々が遠くから集まる。
この出来事は、グローバル資本主義が荒廃させた限界集落で、それに対抗するような〈共 the common〉が芸術を触媒として立ち上がっていることを意味するのだろう。

それを手島さんは、確信をもって実行しているに違いない。
さながら"開拓者"のように。

 「青い家」でくつろぐ参加者。縁側に並ぶのは、夢の情景などを描き留めた上田章子さんの作品。
鏡に映るのは酒井龍一さんの新作。

ギャラリー・デン南山城村 Visual Sensation vol.5 3/17~4/6
出展作家: イシカワタカコ/上田章子/酒井龍一/杉山卓朗/奈良田晃治/西川茂




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