2013年12月2日月曜日

仲摩洋一展 ―inside the forest―  於、コンテンポラリーアートギャラリーZone (箕面・桜井市場)

そこに広がるのは、まぎれもない風景である。
だが、それがいかなる風景であるのかは自明ではない。
足を運ぶ、佇む、見る、(タイトルやステイトメントを)読む、という行為を通じてそれが森を描いた風景であることがゆっくりと明らかになる。

モチーフは、とある原生林だという。
仲摩さんは森の中を歩き回って写真を撮り、アトリエに帰りついた後から時間をかけてドローイングを重ね、そしてタブロー(油彩)に仕上げてゆくそのプロセスをとても丁寧に考えている。
だからこそ、モチーフを採取する場と制作する場、という隔たる空間や時間の間(あいだ)に、作家の意識や無意識を通じた何かがこもってゆくのだろう。
鑑賞者の意識が入り込むのも、もちろんこの"間(あいだ)"である。
作品の前に立つことが、森の中に立つ、ことを意味する"inside the forest"(2013)。

水面に映り込んだ森を描いた120号の大判タブロー"water mirror"(2013)。鏡像を通じて開示される存在を示唆しているのだろう。


そこに私が"いる"ということ、目の前に絵が"ある"ということ。
存在への問いはここからはじまる。

絵の前に立ち、それを絵として対象化することは、すなわち世界を対象化することである。ここでいう世界とは、人間存在を取りまく外部世界であると同時に、絵の中に世界を見出し、見通す作家や鑑賞者の内面世界でもあるのだ。
ゆえに、森に流れる空気や射し込む光といった現象を描くことは、とりもなおさず世界内に生起する様々な現象に私たちの思惟を結びつける象徴を描くことへと転位する。にもかかわらず、それとひと目でわかる象徴的な図像が描かれているわけではない。

そんな仲摩さんの作品はどれも、タイトルが重要な意味を持っていることがすぐに理解できるのだが、ここでヤスパースの哲学に水先案内を依頼するならば、深遠さを象徴する森とは存在の暗がりを、作品に付けられたタイトル(言葉)は暗がりに光を照らす理性を表していると解釈することができる。
そうして"water mirror"から光を照り返された私は、絵の前で"問い"を発する私の存在、その内奥にある実存の闇に光を当てることを促されてしまうのだ。

このように幾つかの段階を踏まえ鑑賞者の実存をも照射する力がある光の表象、というのは大きな魅力である。この光の表象をめぐっては、印象派の多くが瞬間の光を捉えるのに対し、仲摩さんの絵においては、持続する時間がキャンバスにつなぎ止められている。それは具象的モチーフが写真や紙を経てキャンバス上で抽象的に溶けてゆく、その制作に要する時間の中でつなぎ止められる持続なのだろう。
なるほど、私たちは何かを対象として把握し、思惟し、認識しようと努める時、かならず時間の中で遂行するほかないのだという真理に至りつく。

つなぎ止められた時間の持続は、表象された光によって絵画本来の力へと変換されるのだろう。


コンテンポラリーアートギャラリーZone 11/23~12/5


"water mirror"(2011)

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